急な階段を登りきると、右手に見えるドアを示し、女は言った。
資料によれば、女は今、四十九歳のはずだった。が、その姿はまるで老女のようであった。その表情は疲れきっており、活力というものがまったく感じられなかった。
女は病んでいる。女の診療をしている彼は、そのことを十分過ぎるほど理解していた。しかし、それでもなお、女のやつれ方は異様だった。
女が初めて彼の営む診療内科を訪れたのは、半年ほど前のことだった。症状を聞いて、彼は「鬱病」という診断を下した。
その後治療を続け、さまざまな薬を処方した。が、女は一向に回復する様子を見せなかった。心の病気というのは複雑だ。決してあせってはならない。彼は自分にそう言い聞かせ、気長に女の治療を続けた。
その甲斐があってか、先日、女は心の中にしまい続けてきた悩みを打ち明けてくれた。
女の息子は長期の引きこもりだった。高校に入学してしばらく経った頃からなので、かれこれ十年になる。その間、ほとんど家から出ていないということだった。
女と息子は母子家庭であった。相談できる相手などは誰もいないらしい。
一年ほど前のことだった。女は息子を病院に連れていく決意をした。が、これはとんでもない失敗に終わった。女が病院に行くよう説得すると、息子は激しく取り乱し、その後一切部屋から出なくなった。トイレや食事の時間でさえもだ。
女は後悔し、自身を責め続けた。いつしか精神に異常をきたしてしまった。そして彼の診療内科を訪れることとなった。息子に通わせようとした病院に、母親が通うことになるとは何とも皮肉な話である。
「ここから先は私にまかせてください」
彼は言った。女はもどかしそうな顔をしながらも、素直に従った。
「失礼します」
彼は注意を払いながら息子の部屋に踏み入った。
空気が澱んでいた。机の棚には高校時代の教科書が並んでいた。ハンガーには学生服が掛かっていた。パソコンもDVDもなかった。その空間は十年間の時の歩を忘れたかのようだった。
いや、よく見るとそうではなかった。時計はときを刻んでいたし、カレンダーの年度も変わっていた。確かに時は流れていた。
息子はベッドに横たわっていた。頭から布団をかぶっていたので顔は見えないが、そのふくらみが存在を主張していた。
「こんにちは」
彼は息子に声をかけた。
彼が部屋から出ると、女がすがりつくように聞いてきた。
「先生、どうでしたか」
「すいません。しばらく外に出てきます」
彼はそう女に告げると、絡み付くような視線を背中に感じながら、玄関へ向かった。
外に出ると彼は携帯電話を取り出した。
番号を入力しながら、女が息子を病院へ連れて行こうとしたときの顛末を思いだし、鼓動が高鳴った。
「……一年ほど経過していると思われます。胸に出刃包丁が……」
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